陶磁器工房について。3

 

 1923年5月にクレーハン工房は生産工房としてバウハウスに組み込まれ、マイスター・マルクスの工房は、技術的、経済的に別個に扱われるようになりました。しかし、工房の分離は、特に摩擦を生じることもありませんでした。1924年のはじめにバウハウス製陶部はその技術指導を職人のオットー・リンディヒにまかせました。営業主任の方は職人衆テオドール・ボークラーが担当しましたが、彼はどうやら事前にバウハウス本部で商業簿記の速成コースに通ったそうです。

 

 グロピウスは早くから陶磁器の大量生産を最重要の課題と考えていました。彼は1923年4月5日付でマルクスに宛ててこう書いています。「昨日、焼き物の新しいお作の数々を拝見しました。それらはすべて1点ものですが、作り上げた作品が人々の手に入りやすいような方法を考えないのは、間違いではないかと思います。機械で製品を大量生産できるやり方を考え出すべきです。」しかし、マルクスはこの考えに反発しました。「われわれはバウハウスが教育機関であるということを常に念頭においていなければならない。…この目的を達成するために、制作実習を行うことは正しい。しかし断じて実業化を目的にするようなことがあってはならないのである。そんなことをすればバウハウスは、すでに存在する100の工場に加えて、101番目になるだけであろう。」

 

 マイスター・クレーハンもこうした成り行きには反対でしたが、職人衆のボークラーとリンディヒは工場側とうまく話をつけてしまいました。こうして最初の工場制作の陶器として1923年に、バウハウス・モデルハウスの台所のための貯蔵容器シリーズがつくられました。