陶磁器工房について。4

 

 1923年の展示会、ライプツィヒとフランクフルトの見本市でバウハウス工房の実演を行ったこと、それに1924年のシュトゥットガルトの工作連盟の展示会「形態展」に参加して成功を収めたこと、これらが製陶部門に活発な反響を呼び、問い合わせが増加しました。工場側は当初及び腰だったため、工房自体が生産規模を拡大したり、加工方法を合理化したりしてこの事態に対処しなければなりませんでした。その結果、リンディヒとボークラーが開発した型枠工法で大量生産可能な器が他の作品を圧倒しました。これは、形態によってもシリーズ全体の性格を表すことになりました。

 

 資材が不足し、作業場が狭く、おまけに適当な窯がなかったこともあり、結局ドルンブルクのバウハウス工房は閉鎖されることになりました。事態を改善しようという試みは、ワイマール・バウハウスが経済的に逼迫したため挫折しました。手っ取り早く自滅させてしまおうとばかりに、国家が予算を半分に削ろうとしたのです。

 

 しかしそれは、デッサウに移ったバウハウスが、簡単に陶磁器工房の新設を断念したという意味ではありません。ラスロ・モホリ=ナギは工業化推進の先頭に立っていましたが、デッサウに陶磁器工房がないことは「二重の意味で悲しむべきことだ、陶磁器工房はバウハウスの本質部分をなくしていたし、おまけにちょうどこの工房はすばらしいモデルを作り出して広く認められ、最近では陶器と並んで磁器も作り始めていたのだから」と語っています。また「大きく発展した帝国製陶工場が、デッサウのバウハウスに陶磁器工房を新たに設立する資金をもたらすことを」望んでいるが、結局この期待は満たされることはありませんでした。