バウハウスの教師たち

 バウハウス初期で書かれた手紙でグロピウスは、ワイマールに「精神の共和国の礎石」を置くつもりだと予告しています。その手始めは適切な人材の確保でありました。「言うまでもなく何よりも重要なのは、強力で活力ある人材の獲得です。そこそこのところで妥協して始めるなどということは許されません。機会があり次第、強力な、世界的な人材を呼び寄せるのがわれわれの義務なのです。たとえその相手が内面的にまだよく理解できないとしても」

 

 

 最初の年にグロピウスは、全く異なった出自をもつ3人の芸術家をバウハウスに招きました。芸術教育家であり、画家であるヨハネス・イッテン、画家のライオネル・ファイニンガー、彫刻家のゲルハルト・マルクスです。

 

 この3人の中では明らかにイッテンが最も影響力を持っていました。やがてバウハウス教育の根幹をなし、ここで独自のやり方で展開されることとなる予備課程(工房に入る前に半年から1年間、基礎基礎教育を施す場所。バウハウス教育の特徴の一つ。)を受け持ったからです。

 

バウハウスの教師

 

 ゲルハルト・マルクスはグロピウスの戦前からの知り合いで、自分ではむしろ保守的な芸術家であると考えていましたが、初めのうちはグロピウスの理念を無条件で支持していました。彼は彫刻家として制作現場の問題に取り組み、特に製陶工場での経験があったため陶磁器工房を設置すると表明していました。ファイニンガーは当時もっとも知られた表現主義の画家の1人で、作品の持つ急進性の故に論議の的でありました。彼は印刷の工房を受け持ったが、これはバウハウスの前身校が備えていた数少ない工房の1つでした。

 

 

 1919年の末、ワイマール在住の画家ヨハネス・モルツァーンの推薦もあり、またイッテンの希望もあって、表現主義の画家ゲオルク・ムッヘを受け入れました。1920年の4月に彼はワイマールに移り、その年の10月から幾つかの工房や予備課程で教え始めました。

 

 1920年にマイスター評議会は、パウル・クレーとオスカー・シュレマーの招集を表明し、2人は1921年の始めに授業を開始しました。ローター・シュライヤーも1921年の始めに授業を開始しました。彼は「シュトルムの芸術家」として名を知られており、舞台芸術学部をつくることになっていました。

 

 さらに、次のマイスターとして1922年にヴァシリー・カンディンスキーを招きました。彼は1921年に再びロシアからドイツにきており、最も重要な抽象画かとして認められていました。こうして3年のうちにグロピウスは一連の前衛芸術家をバウハウスに呼び寄せ、彼らはそこで本来の領分である絵画とは一見何の関係もなさそうな課題に取り組むことになりました。

 

 

 しかし、彼らはそれが、自分たちの理論によって芸術を再び日常生活の自然な一部とするために力を合わせることのチャンスだと考えたのです。新しい精神的な指針はここで行動に移されました。芸術家たちはバウハウスの理念に仕える者でしたが、同時にその全体の中で創造的なパートナーだったのです。