ヘルベルト・バイヤー グラフィックデザイナー、画家

 

 

1900年、オーストリアのオーバーエスターライヒ州に生まれる。

 

1919年から1920年にかけて、リンツのデザイナー、ゲオルク・シュミットハマーの事務所で見習い、最初の印刷作品を制作。

 

1921年、ダルムシュタットのデザイナー、エマヌエル・マルゴルトのアトリエに勤務。

 

1921年10月から1923年7月まで、さらに1924年10月から1925年2月まで、学生としてバウハウスに在籍。シュレマーとカンディンスキーのもとで壁装工房で学び、職人資格を取る。教員として、また「若マイスター」として、1925年4月から1928年4月までバウハウスに勤務。新たに設立された印刷・広告工房の主任。これは後に印刷術・広告造形工房と改名。バウハウス専用の印刷物も制作。

 

1928年以降、ベルリンの広告代理店、スタジオ・ドルラントの責任者。

 

1930年にパリで開かれた「装飾芸術家協会展」のドイツ部門を初めとする展示会の設営制作。そのかたわら絵画と写真に活躍。

 

1938年、アメリカ合衆国に亡命。その年近代美術館で「バウハウス1919〜1928」の展示会とカタログを制作。その後グラフィックデザイナーとしてニューヨークで活躍。

 

1946年以降、コロラド州アスペンの文化センター設計。絵画、グラフィックデザイン、建築、造園設計に携わる。

 

1946年から1956年まで、「コンテナー・コーポレーション・オヴ・アメリカ」の、1966年以降は「アトランティック・リッチフィールド・カンパニー」の芸術顧問。

 

1968年、シュトュットガルトの「バウハウス50年展」の展示会とカタログを制作。

 

1975年、カルフォルニア州モンテシトーに移住。

 

1985年、サンタバーバラで死去。

 

 

 バイヤーはバウハウスの広告、展示会部門の最も多彩で革新的な作家であった。その仕事は、20年代に早くも写真を取り入れたことによって際立っている。40年代以後、彼はアメリカ合衆国で、自分の活動を広範な「環境芸術」にまで広げることができた。