パウル・クレーの授業

 パウル・クレーはバウハウスの教師として授業を行うことを引き受けましたが、教師としての経験はまったくありませんでした。彼はわずかの期間美術学校に籍をおいたことがあるだけで、その知識や能力の大部分は「独習」によって身につけたものでした。だが彼はまだミュンヘンにいた革命時代から、この新しい芸術学校の企画に非常な関心を寄せていました。そのすぐ後に当時のシュトュットガルトの美学生の代表だったオスカー・シュレマーが、そこの大学に彼を呼び寄せようとして失敗しています。

 

 クレーについては、1921年にはほとんど同時に3つの論文が発表されました。彼は一般大衆にはまだ知られていなかったとはいえ、前衛芸術家グループの間ではかなり有名で、美術市場に最初の足掛かりを築いたばかりでした。1920年頃には彼は、最も重要な表現主義芸術家の一人と目されていたのです。クレーは作品に常に時代精神を反映させる作家でした。授業をしなければならなくなったということは彼にとって新たなきっかけとなり、今や自分の作品の技術、様式、内容を変え、同時に初歩的な形態論の授業にかなった芸術教授法を作り上げることになったのです。

 

 

 その授業の一部は予備課程の授業と平行に、予備課程第1学期に行われ、一部はその後も引き続き行われました。クレーはシュレマーと交替で、それまでイッテンがやっていたデッサンの授業を学期単位で受け持つことになりました。

 

 クレーはしばらく形態授業を行ったが、そこからやがて1921/22年の冬学期は「造形的形態論」を発展させました。つまり自分にふさわしい、平面的な広がりを持つ板絵を出発点として選んだのです。 1922年4月2日までに彼は自分の行った講義をすべて文章にしたので、彼の最初の講義についてある程度のイメージを得られます。1922/23年の冬学期には、彼はそれまでの授業を色彩論にまで広げています。