デッサウ・バウハウス

 ワイマール・バウハウスの幹部達は何の見通しも持たぬまま、国に対して辞意を表明し、このままバウハウスの終焉になりかねぬところでした。しかし、その後何ヶ月かの間に、バウハウスが新しいタイプの学校として極めて評判が高かったことが明らかになり、あちこちの町から引き合いが来ました。「デッサウ、フランクフルト・アム、マイン、マンハイム、ミュンヘン、ダルムシュタット、クレーフェルト、ハンブルク、ヴェストファーレン州のハーゲン・・・からバウハウス事業の継続を促す誘いや引き合いがありました。」

 

 しかし、結局最後まで残ったのはデッサウ市だけでした。そこでマイスター組合はこの町への移転を決定しました。それにデッサウは社会民主党が政権を取っており、市長のフリッツ・ヘッセが個人的にバウハウスを支援してくれてもいました。

 

 

 こうしてバウハウスは、それまでの国立学校から市立の教育機関になったわけであります。デッサウは今日と同様、機械工業の町で、ここの最大の企業の一つは、飛行機や機械を製作するユンカース製作所でした。さらにデッサウの予定移転地にはイーゲーファルベンのように、従業員をデッサウ市内に抱えている大きな化学工場もありました。1925年の市の人口はおよそ5万人でしたが、1928年には8万人膨れ上がりました。住宅難はひどかったが、都市開発計画というものがありませんでした。つまりグロピウスは当時、住宅建築の工業化と合理化を盛んに説いており、それを市当局が聞きつけたというわけであります。

 

 ほどなく彼はデッサウ郊外のテルテン地区に、自分の考えにもとづいたモデル団地をつくるようにという委託を受けました。その後グロピウスは、1925年3月から1928年3月までの3年間にわたって、デッサウ・バウハウスの学長職にとどまることになります。この時期にバウハウスは、その発展史上新たな頂点を迎えました。

 

 グロピウスによって建てられた新校舎と教職員のためのマイスター宿舎は、ドイツの近代建築の代名詞となりました。バウハウスは一種の巡礼地となり、国内の見学者は毎月数百を数え、のみならず海外からも増え続けるようになりました。バウハウスの学生が、定期的に見学者のガイドにあたる有様でした。

 

 

 グロピウスはテルテン団地で初めて建築の工業化の実例を示すことができたのであり、またデッサウ市の職業安定所は彼の手になる最も徹底した、最も美しい機能主義的建築となりました。