ハンネス・マイヤーの時代

 マイヤーがバウハウスの学長になると、グロピウスの遺物である審美主義的な要素を一掃しました。。彼は「芸術とは秩序にすぎない」といっていました。徹底した論理と機能主義によってバウハウスを再組織しようとしました。それはグロピウスを否定しようとしたとも言えるが、グロピウスのバウハウスの極限化でもあったかもしれません。

 

 これも皮肉ではありますが、グロピウスが去った後に、バウハウスへの注文が増え、生産も軌道に乗ってきます。マイヤーによる合理化がある程度成功しているのです。照明器具や壁紙が売れ、工房は利益を上げ始めます。広告デザインは特に好評で、バウハウスのタイポグラフィが人気を集めました。一方、忘れてはならないのは、カンディンスキー、クレー、ファイニンガーなどの画家たちの作品も一般的に認められてきました。モダン・アート、モダン・デザインが一般的に認知されはじめたのです。この時代のアール・デコという大衆スタイルの地のうちに、バウハウスは抵抗なく受け入れらました。

 

 マイヤーのバウハウスは、このような大衆文化の時代に接していました。構成主義は、古い芸術への革命のはずであったが、ファッショナブルな広告デザインに変容していきました。マイヤーは新しい社会のためにデザインを合理化したのです。しかし、工房を合理化するほど、、資本主義社会の利益追求のデザイン会社へと近づいていったのです。

 

 だが、マイヤーは単なる機能主義者ではありませんでした。グロピウスとは違うが、彼もユートピアを夢想し、時代錯誤的に、社会主義世界に共感していたのです。彼はおくれてきたロシア構成主義者だったといえるでしょう。しかし、バウハウスを取り巻くドイツは、すでにヒトラーに向かって踏み出していたのです。バウハウスは左翼のアジールとなり、学生のコミュニスト・グループが活動していました。マイヤーはそれを黙認し、内外から攻撃を受けていました。

 

 このままではバウハウスは潰される、とマイヤーの辞任を求める声が上がりました。カンディンスキーやアルバートが中心でした。1930年、マイヤーはバウハウスを去ることになります。この時代についての評価はまだついていませんが、結局最後に勝ったのは、画家たちだったのではないか?という疑問がでています。