1919
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ワイマール国立バウハウス発足。 グロピウス校長のもと、ヨハネス・イッテンなど3人のマイスターが集結。 予備課程、版画、彫刻、陶器、ステンドグラス、織物、家具、舞台などの工房を設置。
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1922
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ヴァシリー・カンディンスキー参加。
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1923
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グロピウスとの指導理念の不一致により、ヨハネス・イッテンらがバウハウスを去る。 実験住宅アム・ホルンの家が竣工。 「芸術と技術の新しい統一」をテーマとする展示会「バウハウス展」を開催。
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1924
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政権を握ったドイツ人民党からの圧力を受け、バウハウス自主解散。実践的な工業デザイン学校に。
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1925
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デッサウ市立バウハウス開校。 グロピウス、工房作品を販売する有限会社バウハウスを立ち上げる。マルセル・ブロイヤーが世界初のスチールパイプ椅子を制作。
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1926
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グロピウス設計によりバウハウス・デッサウ校舎が竣工。 バウハウス制作の家具や照明器具が設置された。 労働者向けの集合住宅・テルテン団地、第1期竣工。
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1927
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バウハウス建築学部が誕生。
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1928
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グロピウスが突然辞職。ハンネス・マイヤーが2代目校長に就任。
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1929
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展示会「バウハウスの10年」を開催。バーゼルなど6カ所を巡回。 ミース・ファン・デル・ローエ、バルセロナ万博ドイツ館を設計。
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1930
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政治的理由からデッサウ市はマイヤーを解雇、ミースが3代目校長に就任する。社会主義色を払拭した建築学校に変身。
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1932
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デッサウ市でのナチスの台頭でバウハウスが廃校に。ミースはベルリンの元電話工場で私立バウハウスを再開。
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1933
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ベルリン警察とナチスが学校を封鎖。 ミースがバウハウスの閉校を学生に通知。
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1937
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グロピウスは、ハーバード大学デザイン大学院で建築学科の教授に。
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1938
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ミースは、現イリノイ工科大学の建築学部長に迎えられる。
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1951
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ドイツではマックス・ビルにより、バウハウスの理念を継承するウルム造形大学が建設される。
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