バウハウスの危機

 グロピウスは、1923年のバウハウス展によって、芸術とテクノロジーの新しい統一をはかり、バウハウスを社会的に認知させようとしていました。展覧会の成功は、明るい見通しを与えましたが、大きな社会的変動が、バウハウスを危うくします。バウハウスというより、ワイマール共和国が揺らぎつつありました。

 

 ドイツは敗戦によって巨額の賠償金をはらわなければならなかったが、その約束を果たせず、フランスとベルギーは、1923年にルール地方を占領してしまいました。ドイツ人は怒り、ナショナリズムの波が高くなり、極左と極右が激しく対立しました。

 

 共和国は、バヴァリアの軍隊を出動させ、サクソニーとチュリンギアの労働者を弾圧しました。そして1924年の選挙では、チュリンギアで保守党が勝ち、バウハウスをなんとか支持してきた社会民主党を中心とする政府が倒れました。保守派は、バウハウスを共産主義者であり、ボリシェヴィギであると攻撃しました。しかし、新政府は、極右的勢力も警戒していたので、条件付きでバウハウスの継続を認めました。

 

デッサウ・バウハウス

 

 グロピウスは、バウハウスが政治的左翼であるという非難を打ち消すためにあらゆる努力をし、国際的に呼びかけて、救助を求めました。しかし、それらの国際的運動は、バウハウスを取り巻く地方政治を変えることはできませんでした。

 

 1924年3月、グロピウスは、1925年3月までで任期が切れ、あと半年の延長しか認められないと通告されました。また、バウハウスの資金が10万マルクから5万マルクにカットされました。継続は極めて困難になり、ついにバウハウスの幹部達が1925年4月1日にワイマール・バウハウスを閉じることを告知しました。