バウハウスの終焉

 1920年代の終わりから勢いを増してきた政治化の傾向はバウハウスにも波及し、これがバウハウスの存続に決定的な影響を与えることになりました。

 

 1929年の大恐慌の後、1930年の9月に行われた帝国議会選挙の結果、ナチが台頭しました。ヒトラーはほとんど宗教的なまでに崇められ、未来のドイツの指導者、総統として祭りあげられます。同時にこの1930年の帝国議会選挙では、共産党が得票数を伸ばしました。

 

 1931年と1932年には、ナチは選挙で勝利を収めました。デッサウでは1931年10月の選挙で36議席中19議席を占め、市会議長になったのはナチの大管区長官P.ホフマンです。そのうち、州議会ではナチが絶対多数を占めるようになり、ヘッセによれば「これまで常にバウハウスに支援の手を差し伸べていた」州政府は崩壊しました。そうして「デッサウ市の地方選挙のみならず、今また州議会選挙も、ボルシェヴィギのバウハウスに対する闘いをスローガンにナチ党をおさえられて」しまったのです。

 

 デッサウのナチは、選挙で勝利を収める前から、バウハウス閉鎖を要求していました。「バウハウスに対する資金援助を即刻中止すること。外国人教師を即時解雇すること。貧しい民の納める税金で外国人に贅沢三昧をさせ、ドイツ国民が飢えているというのは、自治体の指導部が市民に対して負う責任に反することだからである」ということでした。

 

 選挙が大勝利に終わるや、ナチはすぐさまバウハウスを標的をした動議を次々に提出したが、そのうちの一つとして多数決で採択される訳ではありませんでした。それどころか翌年の予算が早くも3月に承認されました。もっともこれは1932年10月1日付で、バウハウスに契約破棄を告知することを織り込んだものでした。しかし、その直後にナチの州政府長官フライベルクは、シュルツェ・ナウムブルクを従えてバウハウスを視察し、意見書を作成させたが、これは徹底的に否定的な内容を持つものとなりました。

 

 さらに、州政府は2人の市参事会員をナチの党員と入れ替え、これによって今後の議決における多数を確保したのです。1932年8月22日、市長のヘッセは、バウハウスの解体を求めるナチの動議を、新たに議決日程に取り組まざるを得なくなりました。

 

 この動議に反対したのは、ヘッセと4人の共産党員だけでした。社会民主党は、長年バウハウスを支援して来たことが選挙で急速に支持を失っていった理由であるとして、棄権しました。こうしてバウハウスは1932年9月末で解体すべきこととする、ナチの動議は採択されました。