2010年

9月

05日

「バウハウス展」のポスターについて

バウハウス展のポスターはフリッツ・シュライファーのデザインによるものです。彼はこのポスターで構成主義の芸術家らを讃えました。当時の構成主義者の理想に従い、人の顔と文字を抽象化して、無表情な「マシンエイジ(機械時代)」にふさわしい単純な幾何学的形状を描きました。

 

幾何学的な顔はもともとバウハウスの印章の一部としてオスカー・シュレンマーがデザインしたもので、このオリジナルのデザインをさらに単純化して、縦横の細い線を省き、5つのシンプルな長方形だけを残しました。口を表す一番小さい長方形の幅はほかの長方形の幅の寸法の基準になっています。

 

タイポグラフィは顔の長方形と一貫したデザインで、角張った堅い形を繰り返しています。書体はテオ・ファン・ドゥースブルフが1920年にデザインした最初の書体と似ています。

 

 

2010年

8月

29日

バルセロナチェアの秘密

バルセロナチェア

バルセロナチェアはスペインのバルセロナで開かれた万博博覧会のドイツ館のために、1929年にミース・ファン・デル・ローエによってデザインされました。ほかのパビリオンと違い、ドイツ館に展示品は何もなく、建物自体が展示品でした。エレガントで閑散とした建物は、石灰華、グレーのガラス、クローム、合金の柱、濃緑の大理石でできていました。この建物に置かれた唯一の家具が白い革張りのバルセロナチェアとバルセロナオットマン、そしてバルセロナテーブルでした。オットマンとテーブルには、支持部に椅子と同じ「X」の形のフレームが使われていました。ミース・ファン・デル・ローエがデザインしたこの建物と家具はいずれも画期的なデザインとみなされ、また彼のヨーロッパでの最大の業績とされました。

 

このような現代的な名作が70年以上も前にデザインされ、作られたということは驚くべきことです。バルセロナチェアはシンプルな正方形に基づく綿密なプロポーションが魅力です。椅子の高さは幅と等しく、また奥行きと等しい。すなわち、全体がきれいに立方体に納まるのです。クッションの革の長方形はルート2長方形で、スチールのフレームに取り付けてあります。椅子に革を張る工程で歪んだり引っ張られたりしても形が崩れないように、この長方形はデザインされています。脚の「X」字の構造はエレガントなフレームを構成しており、この椅子の永遠のトレードマークとなっています。

 

 

2010年

8月

17日

カンティレバーチェアの秘密

 

ワシリーチェアが椅子の材料革命だとすると、「カンティレバーチェア」は椅子の構造革命と言えます。それまで椅子といえば基本的に座面の支持を前後の4本の脚で支えるものでしたが、この椅子は片側だけで座面の支持を行う片持ち梁の構造になっています。その片持ち梁が「カンティレバー」と呼ばれていたことから、この椅子の名がつけられました。

 

このカンティレバーチェアには2通りあり、1つは、ドイツ生まれの建築家、ミース・ファン・デル・ローエによってデザインされた椅子(写真左)で、もう1つはマルト・スタムによるものです(写真右)。両者の違いは、ミース・ファン・デル・ローエがパイプをアーチ状に曲げ、マルト・スタムがパイプを90度に曲げた点です。

 

 

2010年

8月

02日

ワシリーチェアについて

 

ワシリーチェアは、曲げ加工されたスチールパイプをボルトで接合してフレームが形成されています。そして、背、座、肘掛けは、そのフレームに革を張るだけといった構成になっています。座ると少し横揺れするため、構造的な不安を感じながらも緊張感と浮遊感を得ることになります。しかし、革が体にフィットして座り心地はなかなか良いです。

 

椅子をデザインしたマルセル・ブロイヤーは、バウハウスの1期生で、鋼管を用いた家具を多く手がけました。その代表作が「ワシリーチェア」です。バウハウスの同僚講師であった画家のワシリー・カンディンスキーの誕生日にこの椅子を贈ったことから、ワシリーチェアという名前になりました。

 

私の母校である、札幌市立高等専門学校にもこの椅子が置いてあり、とても親しみのある椅子のひとつです。

 

 

2010年

7月

27日

学校が閉鎖された後、有名な人たちはどうなったのか?

 

ワルター・グロピウスとミース・ファン・ファン・デル・ローエはアメリカに亡命し、それぞれハーバード大学、イリノイ工科大学に着任しました。そしてバウハウスの思想をインターナショナル・スタイルとして昇華し、アメリカ建築界で指導的立場を取りました。モホリ=ナギはシカゴに設立されたニュー・バウハウスの校長になります。バウハウスは死すともその理念は死なずというわけです。

 

 

2010年

7月

26日

バウハウス的とは何か?

 

「バウハウス的」と使う場合、大抵は機能美と美しさが融合する工業的なデザインを指します。デッサウの「バウハウス校舎」風の幾何学的なデザインは、バウハウス様式とも呼ばれました。様式の超越を目指したバウハウスですが、スタイルとして消費されることも多々ありました。

 

 

2010年

7月

25日

なぜバウハウスはすぐに閉鎖されてしまったのか?

 

ナチスの迫害が直接的な原因です。バウハウスは、写実的な美術や様式建築を好むヒトラーの趣味に合わず「退廃芸術」として弾圧されてしまいました。またハンネス・マイヤーが校長の時代は社会主義で共産主義的な政治色が強く、ナチスとは対立する立場にありました。ミース・ファン・デル・ローエの代になって政治色は払拭されましたが、その努力も虚しく閉校してしまったのです。

 

 

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2010年

7月

24日

教師にはどんな人がいたのか?

 

バウハウスの教師陣は超有名な人ばかりです。パウル・クレーやヴァシリー・カンディンスキー、ラスロ・モホリ=ナギなど芸術分野からもビッグネームが集結しています。彼らはデザインの基礎を指導し、その傍らアトリエ付きのモダン住宅「マイスター・ハウス」で作品を制作していました。アートの歴史にもバウハウスは有名です。

 

 

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2010年

7月

23日

デッサウは世界遺産?

 

バウハウスが無くなった後も建築は残りました。デッサウの「バウハウス校舎」です。1945年の空襲で著しく損傷はしましたが、2度の修復を経て、機能主義建築の記念碑として完璧に復活しました。1996年に関連施設とともに世界遺産にも登録されました。バウハウス財団の管理下で広く公開され、一部は宿泊施設としても使われています。

 

 

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2010年

7月

21日

バウハウスは廃校後どうなったのか?

 

バウハウスは1933年で消滅しました。ドイツにはデッサウをはじめ遺講が存在します。たとえば、ワルター・グロピウスが1979年に設計し、生まれたベルリンの「バウハウス資料館」は関連資料を保管する必見スポットになっています。ワイマール時代の校舎は、建築などを教える「ワイマール・バウハウス大学」として使用されています。

 

 

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