2010年

7月

14日

陶磁器工房について。4

 

 1923年の展示会、ライプツィヒとフランクフルトの見本市でバウハウス工房の実演を行ったこと、それに1924年のシュトゥットガルトの工作連盟の展示会「形態展」に参加して成功を収めたこと、これらが製陶部門に活発な反響を呼び、問い合わせが増加しました。工場側は当初及び腰だったため、工房自体が生産規模を拡大したり、加工方法を合理化したりしてこの事態に対処しなければなりませんでした。その結果、リンディヒとボークラーが開発した型枠工法で大量生産可能な器が他の作品を圧倒しました。これは、形態によってもシリーズ全体の性格を表すことになりました。

 

 資材が不足し、作業場が狭く、おまけに適当な窯がなかったこともあり、結局ドルンブルクのバウハウス工房は閉鎖されることになりました。事態を改善しようという試みは、ワイマール・バウハウスが経済的に逼迫したため挫折しました。手っ取り早く自滅させてしまおうとばかりに、国家が予算を半分に削ろうとしたのです。

 

 しかしそれは、デッサウに移ったバウハウスが、簡単に陶磁器工房の新設を断念したという意味ではありません。ラスロ・モホリ=ナギは工業化推進の先頭に立っていましたが、デッサウに陶磁器工房がないことは「二重の意味で悲しむべきことだ、陶磁器工房はバウハウスの本質部分をなくしていたし、おまけにちょうどこの工房はすばらしいモデルを作り出して広く認められ、最近では陶器と並んで磁器も作り始めていたのだから」と語っています。また「大きく発展した帝国製陶工場が、デッサウのバウハウスに陶磁器工房を新たに設立する資金をもたらすことを」望んでいるが、結局この期待は満たされることはありませんでした。

 

 

2010年

7月

12日

陶磁器工房について。3

 

 1923年5月にクレーハン工房は生産工房としてバウハウスに組み込まれ、マイスター・マルクスの工房は、技術的、経済的に別個に扱われるようになりました。しかし、工房の分離は、特に摩擦を生じることもありませんでした。1924年のはじめにバウハウス製陶部はその技術指導を職人のオットー・リンディヒにまかせました。営業主任の方は職人衆テオドール・ボークラーが担当しましたが、彼はどうやら事前にバウハウス本部で商業簿記の速成コースに通ったそうです。

 

 グロピウスは早くから陶磁器の大量生産を最重要の課題と考えていました。彼は1923年4月5日付でマルクスに宛ててこう書いています。「昨日、焼き物の新しいお作の数々を拝見しました。それらはすべて1点ものですが、作り上げた作品が人々の手に入りやすいような方法を考えないのは、間違いではないかと思います。機械で製品を大量生産できるやり方を考え出すべきです。」しかし、マルクスはこの考えに反発しました。「われわれはバウハウスが教育機関であるということを常に念頭においていなければならない。…この目的を達成するために、制作実習を行うことは正しい。しかし断じて実業化を目的にするようなことがあってはならないのである。そんなことをすればバウハウスは、すでに存在する100の工場に加えて、101番目になるだけであろう。」

 

 マイスター・クレーハンもこうした成り行きには反対でしたが、職人衆のボークラーとリンディヒは工場側とうまく話をつけてしまいました。こうして最初の工場制作の陶器として1923年に、バウハウス・モデルハウスの台所のための貯蔵容器シリーズがつくられました。

 

 

2010年

7月

09日

陶磁器工房について。2

 

 ドルンブルクに行った人達はそれぞれ独自の生活を送っていました。「土は森の中で採りました。それは昔の陶器師の特権だったのです。何メートルもある薪を使って窯の口から火入れをします。24時間の予焼き、24時間の仕上焼き。その間、お酒と尽きることのない会話をしていました。そこではクレーハン兄弟が親分です。薪は山林から競り落とした木をきちんと切って、割ったものでなければなりません。これは正真正銘の「自然」です。特に食料の供給が困難なときはなおさらきびしいものでした。ですが、作業がどれほど大変でも、人体デッサンは一通りやり、土曜日にはゲーテからストリンドベリに至までの朗読があるのです。」

 

 ここでは、技術マイスターと形態マイスターとの間の作業分担や共同作業が、ほかの工房よりもはっきりとしていました。この2つが距離的に離れていたからです。クレーハンの工房では、生徒達はロクロや焼き入れといった技術の基本を身につけ、収入に結びつく「営業窯」でともに作業しました。以前に製陶工場と共同作業をした経験のあるマルクスは、壷を使って学生たちと大掛かりな実験をしたり、陶器の歴史について教えたりしていました。

 

 教育工房を生産工房に拡充するという「本部」の決定は、ワイマールのすべての工房にとって革新的なことでした。

 

 

2010年

7月

06日

陶磁器工房について。1

 

 陶磁器工房を設立して生徒を訓練しようというグロピウスの計画は、当初、組織的にも経済的にも非常に困難な状況でした。まず、最初に工房をワイマールに設立しようとして挫折してしまいます。やがて1920年になって、マックス・クレーハンという製陶マイスターとの繋がりができました。彼はまれに見る開けた考えを持っている職人で、30キロばかりはなれたドルンブルクに工房を持っており、バウハウスと協力してやってくれることになったのです。そして、5人の学生がまず2年間そこで作業することになりました。彼らはその地に建つ古城の厩舎を宿舎にして、庭地も1区画つかわせてもらえることになりました。1920年9月20日のマイスター評議会事録には、当時の事をこう記しています「ドルンブルクの状況は見たところ前途多難である。寄宿舎のような性格は、よくバウハウスの考えにかなっている。問題があるとすれば、まえもって予防策を講じないと、この工房と中央との関係が切れてしまいかねない」。