バウハウス誕生に至るまで

 1920年3月13日、全ドイツにゼネストが宣言されました。衝突があり、ワイマールでは労働者が射殺され、それを追悼するデモがありました。この時、ワルター・グロピウスは、まだ仕上がっていないワイマールの家に、妻のアルマとともに移ったばかりでした。家の外をデモの行列が通り、「ローザ・ルクセンブルク万歳!リープクネヒト万歳!」と書かれたプラカードを持っていました。グロピウスは妻に「もしあなたがとめなければ、私も参加していたのに」と言っていました。

 

 このエピソードは、バウハウスがどのような状況下に生まれたのか、グロピウスがその時、どんな気持ちであったのかを語っています。

バウハウスの校章

 

 第一次世界大戦の敗北のうちにドイツ帝国が崩壊しました。各地で労働者や兵士が蜂起し、ドイツ革命が始まります。混乱のうちにワイマール共和国が成立します。なぜベルリンではなく、小都市が選ばれたのでしょうか?

 

 ベルリンは労働者の拠点であり、反乱の危険があったからでした。そして、このゲーテの街から、敗れたドイツを文化の国として再出発させたい、という夢も込められていました。

 

   大戦が終わった時、グロピウスは一つの世界の終わりを感じ、この状況に急進的な解決策を見つけなければならない、と思います。建築家としての社会的責任を意識し、ドイツ革命に参加していきました。

 

 1918年の11月革命によって、ドイツ各地に、ロシアのソビエトにならい、兵士・労働者のラート(評議会)がつくられました。ベルリンでは、芸術のための労働評議会が結成され、グロピウスはセザール・クライン、アドルフ・ベーネとともに議団長につきました。ベヒシュタイン、シュミット・ロットルフ、ヘッケル、マイトナー、ファイニンガー、建築家のタウト兄弟などがメンバーでした。

 

 ベルリンの労働評議会は一つの網領を採択しました。それは既存のアカデミックな教育機関の解体、美術、建築学校の改革、人民の文化施設の創設、美術館の民主化を要求するものでした。また、醜悪な建築物や記念碑は除去されるべきであると指摘しました。

 

 そして、ブルーノ・タウト、グロピウス、ベーネは1919年4月、J・B・ノイマン画廊で《無名建築家展》を開きました。ここから、タウト、グロピウスを含む建築家の結社〈ガラスの鍵〉が生まれました。

 

 

 ベルリンの労働評議会と〈ガラスの鍵〉とバウハウスの成立はほとんど同時期で、三者の関係は微妙です。革命の嵐は、一瞬だけで、芸術家達のユートピアの実現を夢想させるが、すぐに革命は壊滅させられます。1919年1月、ベルリンの蜂起の中で、スパルタクス団のローザ・ルクセンブルクとカール・リープクネヒトが暗殺されます。

 

 1918年、クルト・アイスナーによって宣言されたバイエルン共和国は、アイスナーがミュンヘンで暗殺されると、詩人エルンスト・トラーが革命評議会議長となり、1919年4月、バイエルン・レーテ共和国がつくられました。しかし、この共和国はすぐに叩きつぶされました。

 

 

 このような革命の挫折の中で、妥協的なワイマール共和国が成立します。その時、バウハウスが誕生しました。