知られざるバウハウスの学長

 ハンネス・マイヤーという人物は、今日なお「知られざるバウハウスの学長」であります。当時の歴史を記述するのあったても3年以上にわたる彼のバウハウスでの業績は、ほんの1行で片付けられてしまうこともあります。期間から言えば、彼は後継者として学長となったミース・ファン・デル・ローエよりも数ヶ月も長くバウハウスに在職していたにもかかわらずです。

 

 マイヤーが歴史から忘れ去られたのは、彼に建築家として、またバウハウスの学長としての能力が不足していたからではなく、その政治的立場のせいでした。1930年、デッサウ市は彼を罷免しました。バウハウス内部にいる共産主義学生の行動が、選挙に影響を及ぼすことを恐れたのです。この罷免の陰の黒幕は、アルバース、カンディンスキー、それにグロピウスでした。

 

 グロピウスは生涯の最後の日に至るまで、バウハウス史におけるマイヤーの存在価値を低下させ、下落させるよう画策していたのです。しかし、ようやく最近になって、ドイツ国内でのマイヤーの再評価がなされ始めています。